函館稜北病院開院のころ
働くものの立場に立った医療活動、生活と労働に密着した医療活動、当時では先駆的実践であった訪問看護や夜間診療などの伝統が受け継がれていきました。
しかし、厳しい様々の困難に直面した船出でした。80年代はちょうど、国の政策により医療制度、社会保障制度が次々と切り崩され始めた時期でした。またその逆風に打ち勝つ主体的力量に弱さを持っていました。
病院開院直前に、畑中理事長に続き二番手の固定医として北海道勤医協から派遣された私は、函診の医療を担いながら病院建設に力を注ぎました。若手の医師とあわせて4人体制での出発でした。患者数も思うように伸びず、看護師も不足し、104床の入院ベッドは、半分の52床からのスタートでした。
こうした中での船出でしたが、若手の医師の大奮闘、北海道民医連レベルの看護支援なども得ながら、職員の涙ぐましい努力の積み重ねと、地域住民・友の会や民主団体の支えの中で徐々に基盤を強めていきました。
当時、特に力を入れたのが民主的集団医療体制の強化と医療水準の向上、健診と保健予防活動、慢性疾患管理活動などでした。外部講師を招いての医局の勉強会、全職種参加の症例検討会、看護学会などが精力的に行われました。開院翌年には第1回健康まつりが実施されました。「健康教室」や地域の医療懇談会も旺盛に行われました。
無床診として再出発した函館診療所では現在のデイケアの先駆け的デイホスピタルが始まりました。やがて江差、八雲とそのウィングを拡げて行く拠点として稜北病院は確かな産声を上げたのです。4半世紀前のことでした。
